わたくし、ゲームというものが苦手なのです。
FPSとか絶対無理です。
何よりも、まず酔います(笑)
そういうわたくしですが、唯一得意としているゲームがあります。
それは、洋ゲーの「JOURNEY」。
日本語版のタイトルが「風ノ旅ビト」というゲームです。
細かな内容は省きますが、オープンワールドな(順路的な制約が無く、フィールド内を自由に動ける)いくつかのチャプターを経て目的地まで旅をするゲームです。
そしてオンラインで世界の誰か一人のプレイヤーと一緒にプレイすることが出来ます。
ただし、その相手が誰なのか、名前はもちろん性別も年齢も国も分からず会話も出来ない仕様なので、ポワポワという鳴き声と自分の動きだけでコミュニケーションを成立させる必要があります。
で。
最近、このゲームでちょっとした変化があったんです。
「このゲームで」と言うよりは
「このゲームをプレイする日本人たちの変化」
と言った方がいいかもしれません。
それは、出会った相手のことを「野良さん」と呼ぶ方が増えたこと。
「野良さん」という呼び方自体はこのゲーム特有のものではなく、オンラインゲーム上の誰だか分からないプレイヤー全般のことを、様々なゲームで「野良さん」と呼ぶことが昨今の通例となっています。
ただ、この「風ノ旅ビト」というゲームの場合、オンラインで一時点で出会えるプレイヤーは一人だけであり、基本的には「二人で旅をしようね」というのがゲームの主旨となっているため、この二人の関係性が非常に重視されます。
何せ相手が何者か分かりませんし、ゲーム内のどこでいつ出会うかも分かりませんから、出会った当初は「どんな相手だ?」と探り合いになります。
増して初見でプレイする方にとっては、
「そもそもこれはプレイヤー(pc)なのかコンピュータ(npc)なのか」
の区別さえつきません。
さらに自分も相手も基本的には同じ姿なので、初見時の「何者?」感はすごかったりします。
YoutubeやTwitchの配信でプレイヤーさんの反応を見ていると、十人十色で面白い。
「何か同じ姿のが出た!」
「敵か?どうやって戦うんだ?」
「何で近づいてくるんだ?」
「妙に馴れ馴れしいなキモイ」
等々、人によって反応は様々なわけです。
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さて、
ここからが本題になるのですが、
これまでは、この「何だか分からない相手」である「もう一人の誰か」には特定の呼び名がありませんでした。
ですから人によって
・こいつ
・あの人
・さっきのキャラ
・NPC(※コンピュータだと思われている)
・相方/相棒
等々、様々な呼び方で呼ばれていて、その呼び方が旅を進めるうちに変化していくのです。
ゲームの性格上、基本的に戦闘行為はありませんし、なんせ何のガイドも無い「旅」なので、先輩格のプレイヤーには面倒見の良い方が多い。
「面倒見」の方法は人それぞれですが、それでも旅を進めるうちに初見の方にも
・これは敵ではないこと
・自分をリードしてくれていること
・自分を助けてくれること
などが徐々に理解されていきます。
その理解の度合いに合わせて、相手の呼び方が
こいつ →この人 →パイセン →兄貴 →師匠
のように変わっていき、最後には相手に礼を言ってゲームを終えることも多いという稀有なオンラインゲームなわけです。
ところが、最近登場したのが「野良さん」という呼び方。
初見で「何か来た!」と気づいた瞬間に
・これはコンピュータか?それとも野良さんか?
という選択肢になり、
コンピュータではない=「野良さん」だ
で「野良さん」確定となります。
そして、一度確定してしまうと
「野良さん」という呼び方は、もう最後まで変わらない。
「◯◯な野良さん」のように何らかの形容が付いても「野良さん」はそのまま。
決して「相方」とか「パイセン」にはならない。
お分かり頂けるでしょうか。
つまり出会った相手に対するイメージが広がりにくくなってしまう。
もともとその人が持っていた「野良さん」というもののイメージに縛られてしまう。
「野良さん」という呼び方=「名」によって相手へのイメージが縛られてしまう。
そう感じます。
結果的に、旅の相手が自分の中の「野良さん」以上のものにならない。
自分にとっての「野良さん」以上の価値を持つものにはならない。
プレイ時間は1~3時間程度なので、最初から最後まで同じ相手と旅路を共にすることが出来るのですが、最後に別れてしまえば次にまた会える保証など無いわけです。
正真正銘の「一期一会」
しかし、相手が「野良さん」になった瞬間、
なんせ野良さんですから
「名前も知らないけれど一緒に旅した誰か」ではなく
「野良さん」ですから
つまりまた別の「野良さん」に会えるので、
一期一会ではなくなってしまうので、
相手の存在が軽くなる。
古い映画ですが「陰陽師」という作品の中で、「名」というものは最も身近な呪(「しゅ」、呪術のようなもの。)と言われていました。
名によって相手を縛る。
名をつけることで、正体を与える。
形と有様を固定して「わからないもの」から「わかるもの」へと変える。
「わからないもの」は怖いけれど
「わかるもの」なら怖くない
「わかるもの」となったモノを「わからないもの」に戻したくない。
だって怖くなってしまうから。
なので、名をつけたら最後、その名は決して剥がされない。
別の何かには変われない。
「名で相手を縛ったのだ、わかったのだ、
俺の勝ちだ、もう怖くないぞ。」
しかし、実際には相手は何も縛られていない。
「風ノ旅ビト」でも、相手は自分が「野良さん」と呼ばれていることなど知らない。
本当に縛られたのは、名をつけ「縛った」と思っている自分自身。
自分で自分を縛っただけ。
自分で「わからないもの」を「わかった」と思い込んだだけ。
そして結果的には、もっと見えなくなっている。
もっと分からなくなっている。
そのことに気づけなくなっている。
何かに名前を付けるというのは
けっこう怖いことなのかもしれませんね。
追記:
いわゆる「科学」というものの中にも
・名を付けたから、もうわかった
・説明出来たので、もうわかった
という価値観がそこかしこにあるように思います。
しかし、どのように説明出来ても、
それが正解であると断定出来るかどうかとは
あまり関係が無いと思うのですけどね。