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国の宝

「国民は国の宝」

昔はこう言ったのだそうだ。

 

「お国のために」

自分はリアルタイムで知る年齢ではないが、昔、特に戦時中は

この言葉が普通に使われていたと聞く。

 

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そして今も、同じような台詞を口にする人はいる。

 

曰く、

・個人は社会(国)からの恩恵を受けているのだ。

・社会が危機に瀕した時、個人は社会に尽くさねばならない

・個人の幸せよりも社会の安寧の方が、優先順位は高いのだ。

・国民は、社会のために個人を捨てて尽くすべきなのだ

 

これらの言葉や考え方の共通点は、

・まず国があり

・次に国に従属する民がいる

ということかと思う。

 

しかしこれは、

「主権は国・社会にある」

というのと同義。

 

言うことを聞け

考えるな

号令に従え

疑うな

社会正義こそが最優先事項なのだ

 

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私達は「国の宝」なのですか?

「宝」と言われて嬉しいですか?

 

「そうか、自分は宝物なのか。」

 

そう思うと、嬉しくて安心しますか?

 

でも、「宝物」って「物」ですよ。

 

「物」には所有者(=オーナー)がいて、

「物」は所有される側ですよ。

 

どんなに貴重で大切な「宝物」でも

オーナーのものです。

 

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あなたのオーナーは誰ですか?

 

オーナーが決めたなら、

あなた廃棄されてもいいですか?

あなたのお子さん廃棄されてもいいですか?

 

暴論ですか?

しかし、「物である」ということは、そういうことです。

 

「お国のために」とは、

「オーナーのために」ということです。

 

 

 

社会は、私たちが作ったのではないですか?

国も、和たちが作ったのではないですか?

本来のオーナーは、私達でしょ?

 

私はそう思うのですけれど、

 

間違ってますかね?

 

 

 

 

 

 

※写真は「Unsplash」からのフリー素材

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