思ったことなど置いてみる

写真とか料理とかバイクとか

「信用する」ということ

「人のことを信用出来ない」という人は、けっこう多いのではないかと思う。

自分もその一人で、裏切られたりしたら嫌だし、腹も立つし、何より悲しい。

 

「この人は信用出来るだろうか?」
「信用しても大丈夫な人なのだろうか?」


どんなに慎重になっても、結局のところ信用出来るかどうかは相手次第なので、
どうすることも出来ない。

しかし、出来ることなら信用したい。

f:id:seki_albatross:20191206024108j:plain

 

ある時、このジレンマを何とか出来ないものかと考えていて、
割りとイケるんじゃないかという考え方に至った。

 

「信用する」「期待する」置き換える。


「この人は信用出来るだろうか?⇒ この人に期待していいだろうか?」
「信用しても大丈夫な人なのか?⇒ 期待しても大丈夫な人なのか?」


似ているが、大きく違う。

「期待する」のは「自分」。
つまり「原因と責任のありか」を、相手ではなく自分に置くのだ。

事の原因を自分の中に持つ。
相手をどのような人と見るか「それを見極める自分の力」に全ての責任を置く。

 

原因が自分の中にあるのだから、結果も自分のもの。
相手のせいじゃない。

「決めるのは、自分。」

f:id:seki_albatross:20191206024220j:plain


この結果、「相手に傷つけられる」という状況がなくなる。

 

例)約束したのに!信じてたのに裏切られた!
  ⇒ 私はこの人が「約束を守ってくれる人だ」と期待したが、
    それは自分の判断ミスだった。

 

要は自分がどうするのかという「主体性の問題」として捉えるのである。
主体が相手ではなく自分なのだから、信じる信じない(期待する/しない)は自由自在。

 

この考え方、今のところ自分の中ではいい感じに回っている。

機会があれば、お試しを。