先日ツイッターを眺めていたら
「〇〇となったのが切欠だった。」
というような文章を見かけた。
「切欠」? ん? 「きっかけ」のことだと思うけど、こんな字書いたっけ?
どうにも気持ち悪いので調べてみると、
やはり「きっかけ」は「切っ掛け・切掛」であって「切欠」ではない。
では「切欠」とはどこから来た文字なのだ?
と調べていくと、これは地名らしい。
東京都 あきる野市 切欠。
なるほど、地名なのか。
PCの日本語変換でもちゃんと出てくる。
でも思うのだけど、いくら変換で出てくるとはいえ、
きっかけを切っ掛けでなく切欠と書くことに違和感を覚えないのだろうか?
「きっかけ」という言葉の意味と
「切欠」という文字の意味の組み合わせに
ズレのようなものを感じないのだろうか?
別に「正しい日本語とは!」みたいな話をするつもりは無い。
そうではなくて、身の回りの言葉や出来事から「意味」が薄れていってるような気がするのです。
昨日今日の話ではなく、ここ何十年という時間をかけて少しづつ意味が薄れていってるような感じを受ける。
漢字が書ける/書けないとかの話でもない。
以前、娘が小学校の時、漢字の書き取りの宿題をやっている時に
「お前これ書けてるけど、意味って習ったの?」
と聞くと
「え?習ってない。知らない。」
と答えて驚いたことがある。
それ以来、言葉だけではなくて何かの出来事とかも含めて
何かあると
「これの意味わかる?」
と聞くことが増えた。
1.言葉を「知ってる」ということ
2.その言葉の意味を「知ってる」ということ
3.その意味を「理解している」ということ
これらの「差」のような話なのだけれど、どうも「1だけ」とか「2まで」みたいな状況が多い。
本来は「3」まで行かないと言葉というのは使えないものだと思うのだけれど、「1」だけで使っているケースが増えていると思う。
あ、「3」は「語源を知るべきだ」ということではないのですよ。
「『意味』を自分なりに咀嚼しているかどうか」ということで、
要は自分の言葉でその意味を説明できるか?ということです。
理解していれば(暗記した説明文ではなく)自分の言葉で説明できる。
専門用語などを使わずに平易な言葉で説明出来る。
これはもう鉄板だと思っています。
「知ってる」と「わかってる(理解している)」の決定的な違いです。
そういう「理解する」というアプローチが根本的に薄くなっているからこそ
「切欠」という字義と「きっかけ」という言葉の意味の間に違和感を感じないということなのかな、と思うのです。
誰かが何か言った時
テレビのニュースや政治家が何かを告げた時
先生や専門家と言われる人が何かを言った時
あれ?今の何かおかしくね?
と感じ取れるかどうか。
これ、大事なことだと思うんですけど、
僕の言ってることって、どこかおかしいですかね?