思ったことなど置いてみる

写真とか料理とかバイクとか

前提条件

まず「前提条件」があって、

それを基にした「問」がある。

で、「解」を求める。

 

これが学校での勉強。

 

ただこれには大きな欠点があって、それは何かというと

「前提条件を疑う事はない」

ということ。

 

学校の勉強の中ならいいのだけれど、現実的には非常に危険。

 

 

例えば誰かが何かについて意見を言うと、

「その場で言った言葉」だけが前提条件になってしまう。

まるで現代国語の長文読解のような理解の仕方。

 

長文読解では、

「『解』は出題文の中にある」

が基本になります。

 

学校の勉強的には正しいのだけれど、

人が意見を言う場合には、

 ・その人の、それまでの経験

 ・これまでの話の経緯

 ・現在のその人の立場

 ・そもそもの議論の目的

等々、様々な事が背景としてあります。

 

最近は、そういう事を一切無視して、

つまり前提条件を自分で考えることなく

「言ったことだけ」を聞いて

あれこれ批判したり反論したりというケースが

多く見られるようになってると感じます。

 

 

以前「プログラミング教育」について書きました。 

seki-albatross.hatenablog.com

 

この中で、次のように書いています。

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結局、これなのかな、と。

何が「問」なのか?

その「問」の「前提条件」は何なのか?

 

学校の勉強は、出題者がこれを決めてくれる。

でも現実では、自分で考えて決めなきゃいけない。

 

そんなの面倒くさい。

誰か「前提条件と問」を置いてくれよ。

 

そうなったら終わりです。

「前提条件と問」の設定を、どこかの誰かに任せたら

「見て聞いて考えるあなた」は消えてしまう。

あなたが居なくなってしまう。

 

でも終わってる人が

消えてしまってる人が

増えてるように感じます。

 

僕は消えたくないなぁと、

そして大切な人たちには消えてほしくないなと、

そう願っています。